『小河淌水』はどこにあるの?
ただ人情美、人性美を述べ表す民謡があってこそ、永遠に存在することができる。ただ恒久な民謡があってこそ、本当の人情美、人性美を述べ表すことができる。『小河淌水』はまさにその感情の美しさを述べ表し、その上この美しさを特定な景物、特定な情景の中に融合し、感情が景色に寄り、景色が感情により述べ表し、感情と景色が溶け合う。それゆえに、『小河淌水』はずっと歌っても、続くものであり、人々に「東方セレナーデ」と称賛され、国内及び世界に名を知られる。
弥渡神奇秀美的自然美,为民歌《小河淌水》的生长,提供了肥沃土壤
弥渡の新奇優美な自然美は民謡『小河淌水』の成長に肥沃な土壌を提供した。
弥渡的美,美在绿。坦坦荡荡的绿,一望无际的绿。
弥渡の美しさ、緑に美しさがある。広くて平坦な緑、一望千里の緑。
弥渡的美,美在水。小桥流水的美,高山流水的美。山有多高,水有多高,五步一泉,十步一溪。一山一河,打造了弥渡西山的秀丽。
弥渡の美しさ、水に美しさがある。小橋と流水の美しさ、高山流水の美しさ。山はどれくらいの高さあるか、水はどれくらいの高さあるか、5歩おきに1ヵ所の泉があり、10歩おきに1ヵ所の渓がある。一山一河は弥渡西山の秀麗を構築した。
桂花树下悠悠然润耳不绝的是人们传说的《小河淌水》之源桂花泉,这迷人的幽谷山泉,如空谷幽兰,清如明镜,冬暖夏凉,人道是真龙水,一现身便跳着唱着,给游客愉悦,留下银铃般的笑语,有时又在碧草间现其倩影,沉沉的,静静的,想尹宜公先生也去过青花箐,成就出《小河淌水》的那份悠扬和深情。
桂花(モクセイ)の木の下で悠然で耳を潤して絶えないのは人々が伝わっている『小河淌水』の源とする「桂花泉」である。人をうっとりとさせる悠々とした谷間の泉は人気のない谷間でラン、澄んで鏡のようである。冬は暖かく、夏はさわやかである。人道は真龍水で、現れたとたんにすぐに踊りながら歌い、観光客に愉悦をもたらし、銀の鈴らしい笑い声を残した。あるとき、緑の芝生に美しい姿が現れ、こんもり茂り、静かな雰囲気で、尹宜公先生は緑のいっぱいな樹木の生い茂った谷間にも行ったことがあるから、『小河淌水』にあるその抑揚と深い情を成し遂げたことが考えられる。
弥渡积淀了大量的马帮歌谣,而《小河淌水》就是马帮歌谣的绝唱
弥渡は大量な荷馬隊の歌謡を積み重ね、『小河淌水』こそ荷馬隊の歌謡の絶唱である。
马帮歌谣是马帮现象的产物,而马帮现象是云南滇西的一种历史现象。滇西祥云、弥渡、巍山、云涧等地的人,有的人去经商,劳作,开工厂,实现人生的理想和抱负。
荷馬隊の歌謡は荷馬隊現象の産物であるが、荷馬隊現象は雲南西部の一つの歴史現象である。雲南西部の祥雲、弥渡、巍山、南澗等地域の人は、ある人が通商したり、労作したり、工場を開いたりして、人生の理想と抱負を実現した。
这里有许许多多的古道,著名的有龙庆关,石门关,景东坡,鸟道雄关,大丫口。其中有一条重要的通道,就是从白岩彩云镇,即现在的红岩镇经谷女寺、王母阁、大王庙、八孔桥、登龙马台,又经密祉文盛街,翻过景东坡,进入西区的茫茫旅途。在古道的要冲,形成了一些驿站和集镇,其中著名的有彩云镇,弥城镇,有大庄街,文盛街。其中最著名的驿站要数文盛街。文盛街是滇西著名的茶马古道的重要驿站,也是昆明通往印度、缅甸的交通咽喉。古驿道旁,琳琅满目、应接不暇的是各种各样的古建筑,虽然建筑风格各有春秋,沿驿道的几乎都是铺面,可想当年文盛街的繁华。当年南来北往的马帮,云集于此,带来不同类型的山歌民歌,在这里交汇,一时成为滇西最有特色的马帮歌谣的集散地,形成了与马帮歌谣为主旋律的山歌民歌文化。
ここは古道がたくさんあり、有名なのは龍慶関,石門関,景東坂,鳥道雄関,大椏口ある。その中に、重要な通路が1筋あり、白岩彩雲鎮から、つまり現在の紅岩鎮であり、谷女寺、王母閣、大王廟、八孔橋を経て、龍馬台に登り、また密祉文盛街を経て、景東坂を乗り越え、西地域の茫々たる旅に入り込む。古道の要衝で、わずかな宿場と町を形成になり、その中に有名なのは彩雲鎮,弥城鎮でもあり、大庄街,文盛街でもある。そのうち、最も有名な宿場は文盛街である。文盛街は雲南西部有名である「茶馬古道」の重要な宿場でもあり、昆明からインド、ミャンマーまでの交通要害でもある。古道沿いに逸品ぞろいが数多く、応接にいとまがない様々な古建物がある。建築風格がそれぞれだが、古道沿いは殆ど店舗であったから、当時の文盛街の繁盛だったと思える。あのころ、いったりきたりしている荷馬隊がここに来、様々な類型の山歌民謡を持ってきて集まり、一時雲南西部で最も特色が存在する荷馬隊舞踊の集散地になり、荷馬隊舞踊を主旋律とする山歌民謡文化を形成した。
马帮文化中的马帮歌谣就像一个完整故事,她由留郎——送郎——等郎——思郎——望郎——盼郎等部分构成。像是一条生命的小河,有明快的节奏,有生动的情节。
荷馬隊文化の中にある荷馬隊舞踊はまるで完備な物語のようで、だんなを留める——送る——待つ——思う——望む——待ち望む等部分を構成している。命の小河のように明快なリズム、生き生きとしたプロットがある。
其中,《赶马调》、《送郎调》、《大风刮来树头歪》等,是一个完整的马帮故事,而故事的最高潮便是《小河淌水》。他是留郎、送郎、盼郎、思郎、等郎中的最后一个结局。
そのうち、『赶馬調』、『送郎調』、『大風刮来樹頭歪』等は完備な荷馬隊物語であるが、物語の最高潮は『小河淌水』である。それは「だんなを留める、送る、待つ、思う、待ち望む」の中に最後の結末である。
月亮出来亮汪汪,想起我的阿哥在深山,
月が現れ、きらきらと光り、ぼくのお兄さんが奥山にいることを思い出した。
哥像月亮天上走,山下小河淌水清悠悠。
お兄さんが月のように空で歩き、麓にある小河に水が流れ、透き通っている。
女主人登上高山之顶,后面是小河悠悠,前面是深山苍茫,就那样的永恒的等待,等待赶马人的归来,等待心与心的碰撞,情与情的交融,然而几世几代,把自己凝固成了一座石雕,伊人无望,情归何处,于是,他把一种无奈,一种悲凉,成就了马帮歌谣的千古绝响——《小河淌水》。
おかみさんが高山の頂上までに登り、後ろにある小河が悠々とし、前にある奥山が青々とし、そのようにずっと待っていて、馬子が帰って来て、心と心がぶつかり、情と情が融合しあうということを待っている。だが、長い間にわたって、自分を石彫りの一体に凝らし、あの人は望みがなく、感情がどこに属するか。そして、彼は仕方がなくてうら悲しくて、荷馬隊舞踊の千古絶唱とする『小河淌水』を成し遂げた。
应该说,《小河淌水》是马帮歌谣的集大成,也是马帮歌谣的绝响。《小河淌水》是对马帮歌谣的一种升华,它源于马帮歌谣,而又跳出马帮歌谣,实现了从马帮个类情感到人类社会的爱情情感的转化。
『小河淌水』は荷馬隊舞踊の集大成でもあり、荷馬隊舞踊の絶唱でもあることを言うべきである。『小河淌水』は荷馬隊舞踊の昇華であり、荷馬隊舞踊から起源したが、荷馬隊舞踊を跳びだしている。荷馬隊が個別情感から人類社会の愛情情感までの転化を実現した。
弥渡は有名な山歌の故郷、民謡の故郷である。われわれは弥渡豊富多彩の山歌民謡への鑑賞に対し、数多くのが『小河淌水』に類似して近づく山歌民謡は発現した。これは『小河淌水』の源である。
弥渡はかつて何回か人口の大移動、大吸収があった。南詔時代の天宝戦争、明の洪武時代定西嶺の戦闘、明、清両時代に軍隊の駐屯、人民蓄積、商業蓄積があり、辺境地方を開拓して移民活動をしたから、弥渡に幾千幾万の外来人口を連れてきた。各地方からの人は多元の文化をもたらした。さらに、互いに融合しあって吸収し、それで、弥渡特有な民謡文化を形成した。
弥渡で有名な民謡には『弥渡山歌』、『送郎調』、『赶馬調』、『放羊調』、『背娃娃』、『小補缶』、『相親調』、『陽雀調』、『走板』、『三杯酒』、『朝山調』、『山鶉子』、『過山調』、『訪親調』、『懐胎調』、『月亮出来照山岩』、『月亮出来亮汪汪』等ある。
われわれは弥渡牛街に入れば、山の辺から伝わってくる牛街『十大姉』の抑揚でしみじみとした深い情を持つ歌声がかすかに聞こえてきた。が、牛街彝族郷に入れば、牛街の大きな山歌家庭に溶け合い、濃い牛街彝族民謡の雰囲気をもたらしてくる。
“唉……大姐那个生得脸儿团哪唉”……
「ああ……お姉さんは顔立ちが丸くなっているね。」……
ぼくは一人の彝族おばあさんに会った。彼女が何首かの民謡を歌うことを願って、彼女はちょっと声を練習してから、すぐに歌い始まり、1時間に近づいた。
おばあさんは『山鶉子』を歌っていた。
ああ……このごろはあなたがどこにいたか。
歌広場で探してもあなたがいなかった。
唄が牛街河の拍子に乗り、ゆっくりと南に流れていって、幾重にも重なっている哀牢山を通り抜け、無限な憧れを載せている。
われわれは一行これらの唄を聞き、メロディー、調子、情感から述べ表しても、『小河淌水』に似ると思った。
牛街を離れてから、われわれは密祉に来た。
われわれは密祉文盛街に来て、何名かの年配の方を取材した。張相さんははもう古稀を過ぎたが,体はなかなか丈夫で、非常に口達者である。彼は一つ一つ筋道立って尹宜公先生の子供時代を話し、家宝を数えるように,よく知りぬいている。“尹宜公先生の子供時代にいつも太極頂の麓、桂花穽の辺に行っていた。そこは環境が優美で、景色がきれいで気持ちがよく、山紫水明であった。そこに彝族牧人が放牧し、山歌民謡を盛んに産出する良い場所であった。しかも、牧人が歌った纏綿な歌はいつも谷間にこだました”と僕たちに言った。おじいさんは“密祉地域には太極頂があり、太極頂は毎年一月三日~七日まで朝山盛会が行い、密祉の各村落が順番で引き受ける。請け負う村は必ず「灯頭」があり、伝説によれば、その年に子供を産む農家が推薦されたそうだ。会期になれば、南華、祥雲、巍山、南澗、弥渡等地域の各民族の人々は節句の盛装を着、敬虔な心を持ち、太極頂に観光しに来る”と言った。
われわれは一名の80歳以上の年配の方が何首かの密祉文盛街の小唄を歌うことを願って、彼が非常に率直な人で、30分ほど唄ってくれた。その中、『梗子調』と『哭山調』は音調、メロディー、リズム、風格から聞いても、非常に『小河淌水』に似ていると思った。尹先生の子供時代に文盛街で暮らし、彼が毎日見たり聞いたりするのはまさにこの山歌であった。幼い心の中に拭うのが容易でない印象が残った。誰かがこれらに似合う山歌を唄いさえすれば、尹先生は子供時代に熟知した歌謡の思い出と、尹先生の共鳴をもたらし、その上で強烈に歌いたくて書きたいひとつの衝動を産生することができる。したがって、われわれは尹先生の書いた相当な深い情、相当な流暢、相当に傾聴させる『小河淌水』が理解しやすいだろう。
われわれは自杞利村に来た。自杞利村は密祉郷の西北部に位置し、瓦哲村と自杞利村がずっと友好近隣である。両村部に親戚の人、友達が多く、自然に付き合いが多くなる。婚姻上ばかりでなく、物質上の交流、文化の交流の面でも普遍的である。瓦哲人は山歌民謡が唄え、自杞利人もできる。ここで『月亮出来亮汪汪』を聞いたし、それに彝族『過山調』も聞いた。彝族『過山調』と『月亮出来亮汪汪』はまるで一つのわだちから出たようである。それらは同族同じ源だといえるだろう。『月亮出来亮汪汪』という唄は形式から内容まで、音調からメロディーまで、風格から情感まで、非常に『小河淌水』と似ている。この民謡は70年代に収集して整理した人がいた。一名の年配の方を要請し、われわれに『月亮出来亮汪汪』を唄ってくれた。歌詞には「月亮出来亮汪呃呃汪,亮汪呃呃汪,小河淌水清呀清汪汪」と唄った。
同業者の人は異口同音で「すごく似ている。すごく深い情である」といった。これは『小河淌水』の原形である。『月亮出来亮汪汪』という唄は『小河淌水』とぴったり合い、『小河淌水』の原形といい、頃合であることを言うべきである。尹先生は『小河淌水』をどう整理したか思い出すときに、『小河淌水』の創作過程を追憶するたびごとに、ぼくは「南風合唱団」とわれわれの故郷雲南弥渡の2首民謡を思い出せるとしみじみと言うのも当然だ。故郷民謡の中に1首は『放羊調』、もう1種は『月亮出来亮汪汪』である。『月亮出来亮汪汪』はある人が『放羊調』で石工、行商人等人の生活を唄い、さらに『放羊調』の基礎の上で変化がある節だと年配の方がこのように言った。『放羊調』、『月亮出来亮汪汪』は『小河淌水』の根であり、尹先生はこの2首の民謡に基づき、『小河淌水』改編して整理したと言える。『小河淌水』の根はまさに弥渡にある。








