解けない縁:国王が仏法を保護維持する
2008-01-21 13:50:34 作者:佚名 出所:苍洱五百年 Hits:70
南詔の統一は各諸侯が覇を争うことによる不安定状態を取り除いた。軍事征服と政治手段で築き上げた新興政権を固めて維持するために、南詔蒙氏王族と白蛮豪族、及び主要民族と白蛮の間で共同の信仰を築き、多元部族の一体化を実現するのは当面の急務になった。
南詔王盛羅皮が引き継ぎ、仏教を信仰し、大黒天神聖像を作った。彫像を作り、天竺から来た僧侶は菩提巴坡者といい、秘呪丹書の神位で大黒天神聖像を開眼した。閣羅鳳時代になり、仏教密宗と王室の関係がもっと強め、国王をはじめ仏教密宗を信仰し、王室成員の中に、閣陂和尚のような重要な人物も現れてきた。
閣陂和尚は閣羅風の兄弟であった。天宝戦争で閣羅鳳は唐朝の兵隊を徹底的に打ち負かし、閣羅風が吐蕃に戦勝を知らせると派遣した。吐蕃は宰相倚祥葉楽が南詔にたくさん宝物を贈ると派遣し、そのうち、1本の「摃傘」があった。剣川石鐘山石窟石鐘寺7号洞窟の「閣羅鳳議政図」に閣羅鳳の隣にあるいすに一人の和尚が座り、その人の特徴にははげ、襟の大きい僧衣を着、外に袈裟をかけ、手で数珠を持っている。いすの後ろに1本の傘が差し込んである。この和尚の座席は閣羅鳳の左右の清平官の上にあるから、彼は閣陂和尚であるはずである。これでも分かるように、閣羅鳳のとき、仏教密宗は南詔王室に重大な影響を与えた。閣陂のような土着僧侶の成長は仏教密宗僧侶が南詔の軍事と政治活動に参与し始めたことを表明した。
南詔時代、7名の天竺高僧は相次いで南詔蒙氏の礼遇を受け、国人を教わり、「七師」と称された。しかも、彼らはインド王室からの方法で皇太子を確認したり、新即位国王が合法地位を獲得した儀式を行ったりし、南詔全部の王様を確立し、すなわち「摩頂蒙氏以主斯土」である。この方法は一方では南詔国王と王室が「国王が神様に権利を与えられた」という権威を獲得し、他方では仏教密宗阿叱力「為君之師」、地位がだんだんと高めたから、南詔社会生活に影響がと拡大し続き、仏教密宗の伝播を推進した。仏教密宗僧侶は王室の愛顧を受け、尊重する主要な表現は南詔、大理国とも仏教密宗阿叱力教派の中に高僧大徳を「国師」を冊封された伝統があった。
鄧豊佑時代になり、王室成員でも仏法に帰依していた。豊佑の母親は出家して尼僧になったり、妹越英皇女は天竺からきた阿叱力僧賛陀屈多と結婚したりしたこともある。鄧豊佑は法令を配布し、それにより、三宝(仏・法・僧の称)に敬虔にし、1家で仏像を1体そなえること。蒙世隆は大寺を800ヵ所、小寺を3,000ヵ所築き、努力実行で仏教密宗を押し広めた。豊佑から、代々の南詔王は恭しく仏を信仰し、さらに、各手段で仏教密宗阿叱力教派を押し広めた。王室からの支えと参与があったため、仏教密宗阿叱力教派が素早く伝播され、洱海地区から滇池地区、雲南東北部地区に伝わり始まった。
南詔後、大長和国鄭買嗣曾は仏像を万体鋳造し、彼が蒙氏王室の800人を殺しきったために、ざんげした。段氏大理国時代は阿嵯耶観音を自分の家族の保護神とし、「建国観音」、「真身観音」、「易長観音」と称し、大量な阿嵯耶観音像を鋳造した。当時、非常に阿叱力僧師僧、釈儒を尊敬し、たくさんの高僧大徳を「国師」を冊封された。各級の官吏が科挙を通して選抜され、しかも、僧侶と道士から選抜されるようになった。
大理国時代、仏教密宗阿叱力教派は名実相伴う国教であった。当時、たくさんの重要な仏教寺院、石窟、仏塔の建造は王公貴族と関係があった。大理国時代王公貴族は家で信仰するばかりでなく、出家者もたくさんいた。アメリカサンチアゴ美術館で収蔵している観音銅像には、皇帝驃信段正興が投資して皇太子の段易長生と段易長興等に造ったものもあり、「中国公高貞寿、高明清、高量誠」が聖寺三塔の「修塔大施主」もあり、「興宝寺徳化銘并序」の全称が「大理国上公高踰城光,再建弄棟華府陽派郡,興宝寺徳化銘并序」もあり、お寺を修築した功徳主が高蹄城光であり、昆明地蔵寺経幢で「大理国仏弟子議事布燮袁豆光敬造」もある。
阿叱力僧侶は王室及び数多くの阿叱力出身の豪族官吏の影響を使い、積極に教義を布教し、経典の転写を重ねて、大理国国内の各地に仏教密宗阿叱力教派の影響を普及させた。王室をはじめの上層統治者及び主要住民白族までも深く仏教密宗阿叱力教派を信仰したから、洱海地区は「寺がない山はなく、僧侶がいない寺がない」になった。が、下層の民衆は「家は貧富がないが、仏堂がある。年長者と若者を問わず、数珠を手放す。1歳の間、いくつか斎戒する」であった。
王室貴族と仏教密宗阿叱力教派の関係は現存の「王者像」の中から一斑を見られる。
剣川石鐘山石窟には「細奴邏全家福」、「閣羅鳳議政図」、「異牟尋坐朝図」の3龕の南詔大理国王像がある。これらの像について、本主信仰だと思う学者がいるし、単純に国王を崇拝すると思う学者もいる。問題では王者類の像が仏教密宗の内容でなければ、どうして仏教密宗阿叱力教派の石彫り像の中に出現したのか?
剣川石鐘山石窟以外に、『南詔図転』に中興皇帝が阿嵯耶観音を礼拝する形象は、『張勝温画梵像巻』にその王者の形象も数回出現した。「利貞皇帝礼仏図」に利貞皇帝及び皇后妃嬪、皇太子、侍従の服装装飾は剣川石窟にある王者像と似ている。もっと重要なのは 「十一面観音」像の下に南詔十三代の国王及び細奴邏、邏炎盛の奥様潯弥脚、梦諱を供える人とする画面を描いてある。
少しも疑問がないように、現今見た南詔大理国時代の阿叱力教派像の資料には殆ど王者像が出現したことは決して偶然ではない。
仏教が洱海地区に入った初めに、南詔王と解けない縁を結んでいた。それから、歴代の南詔王も阿叱力教派を信仰した上で、民衆も仏への尊敬を主要な任務とした。注意する価値があるように、大理国の何名かの国王は殆ど釈儒が通暁する高僧であった。南詔蒙隆舜が「嵯耶」さえ開眼し、これでも分かるように、彼は阿叱力教派への信仰が深かったことをわかった。南詔、大理国諸王は阿叱力教派を信奉・伝播・押し広める過程でキーポイントの役割を果たしたからこそ、彼が仏を供える事跡は阿叱力教派の図鑑に描かれ、普及した。天竺僧侶の形象が石窟寺及び石彫り像に彫られたように、阿叱力教派を布教する緊密な関係を持つ細奴邏、閣羅鳳、異牟尋の3名南詔王の形象も剣川石鐘山石窟の中に彫刻された。もしかしたら、王者像を彫刻した初志は阿叱力教派に有功の国王を記念するかもしれないが、後期になり、彼らも崇拝された対象になった。したがって、王者像は阿叱力教派像の1種類であるかもしれない。
元代段氏元締め時代、仏教密宗阿叱力教派と段氏元締めの関係も非常に緊密であった。景定元年公元年大理元締め段実は北京に元帝に拝謁するとき、阿叱力僧侶を連れて行った。明代、咀初にある程度仏教密宗阿叱力教派を制限されたが、すぐ有名な阿叱力僧侶無極は南京に明太祖に拝謁した。明太祖永楽時代、大理鳳儀北湯天大阿叱力董賢は詔を応じ、北京の宮殿で邪気を追い払い、「逐邪功」の功労があったから、明成祖に「国師府」の額を賜られた。したがって、元明両代の地方役所の中に、阿叱力の専務「阿叱力僧網司」を設置してあった。
南詔立国の初めから明代末年までの数年中、仏教密宗阿叱力教派は始終に上層統治集団と関係が緊密であり、王室の力を借用して教義を発揚し、信者を吸収し、インドからの仏教密宗が極力南詔大理国の国教を発展しようとした。そのために元明両代中央王朝はそれを認めなくてはいけない上で、それさえ頼った。
南詔王盛羅皮が引き継ぎ、仏教を信仰し、大黒天神聖像を作った。彫像を作り、天竺から来た僧侶は菩提巴坡者といい、秘呪丹書の神位で大黒天神聖像を開眼した。閣羅鳳時代になり、仏教密宗と王室の関係がもっと強め、国王をはじめ仏教密宗を信仰し、王室成員の中に、閣陂和尚のような重要な人物も現れてきた。
閣陂和尚は閣羅風の兄弟であった。天宝戦争で閣羅鳳は唐朝の兵隊を徹底的に打ち負かし、閣羅風が吐蕃に戦勝を知らせると派遣した。吐蕃は宰相倚祥葉楽が南詔にたくさん宝物を贈ると派遣し、そのうち、1本の「摃傘」があった。剣川石鐘山石窟石鐘寺7号洞窟の「閣羅鳳議政図」に閣羅鳳の隣にあるいすに一人の和尚が座り、その人の特徴にははげ、襟の大きい僧衣を着、外に袈裟をかけ、手で数珠を持っている。いすの後ろに1本の傘が差し込んである。この和尚の座席は閣羅鳳の左右の清平官の上にあるから、彼は閣陂和尚であるはずである。これでも分かるように、閣羅鳳のとき、仏教密宗は南詔王室に重大な影響を与えた。閣陂のような土着僧侶の成長は仏教密宗僧侶が南詔の軍事と政治活動に参与し始めたことを表明した。
南詔時代、7名の天竺高僧は相次いで南詔蒙氏の礼遇を受け、国人を教わり、「七師」と称された。しかも、彼らはインド王室からの方法で皇太子を確認したり、新即位国王が合法地位を獲得した儀式を行ったりし、南詔全部の王様を確立し、すなわち「摩頂蒙氏以主斯土」である。この方法は一方では南詔国王と王室が「国王が神様に権利を与えられた」という権威を獲得し、他方では仏教密宗阿叱力「為君之師」、地位がだんだんと高めたから、南詔社会生活に影響がと拡大し続き、仏教密宗の伝播を推進した。仏教密宗僧侶は王室の愛顧を受け、尊重する主要な表現は南詔、大理国とも仏教密宗阿叱力教派の中に高僧大徳を「国師」を冊封された伝統があった。
鄧豊佑時代になり、王室成員でも仏法に帰依していた。豊佑の母親は出家して尼僧になったり、妹越英皇女は天竺からきた阿叱力僧賛陀屈多と結婚したりしたこともある。鄧豊佑は法令を配布し、それにより、三宝(仏・法・僧の称)に敬虔にし、1家で仏像を1体そなえること。蒙世隆は大寺を800ヵ所、小寺を3,000ヵ所築き、努力実行で仏教密宗を押し広めた。豊佑から、代々の南詔王は恭しく仏を信仰し、さらに、各手段で仏教密宗阿叱力教派を押し広めた。王室からの支えと参与があったため、仏教密宗阿叱力教派が素早く伝播され、洱海地区から滇池地区、雲南東北部地区に伝わり始まった。
南詔後、大長和国鄭買嗣曾は仏像を万体鋳造し、彼が蒙氏王室の800人を殺しきったために、ざんげした。段氏大理国時代は阿嵯耶観音を自分の家族の保護神とし、「建国観音」、「真身観音」、「易長観音」と称し、大量な阿嵯耶観音像を鋳造した。当時、非常に阿叱力僧師僧、釈儒を尊敬し、たくさんの高僧大徳を「国師」を冊封された。各級の官吏が科挙を通して選抜され、しかも、僧侶と道士から選抜されるようになった。
大理国時代、仏教密宗阿叱力教派は名実相伴う国教であった。当時、たくさんの重要な仏教寺院、石窟、仏塔の建造は王公貴族と関係があった。大理国時代王公貴族は家で信仰するばかりでなく、出家者もたくさんいた。アメリカサンチアゴ美術館で収蔵している観音銅像には、皇帝驃信段正興が投資して皇太子の段易長生と段易長興等に造ったものもあり、「中国公高貞寿、高明清、高量誠」が聖寺三塔の「修塔大施主」もあり、「興宝寺徳化銘并序」の全称が「大理国上公高踰城光,再建弄棟華府陽派郡,興宝寺徳化銘并序」もあり、お寺を修築した功徳主が高蹄城光であり、昆明地蔵寺経幢で「大理国仏弟子議事布燮袁豆光敬造」もある。
阿叱力僧侶は王室及び数多くの阿叱力出身の豪族官吏の影響を使い、積極に教義を布教し、経典の転写を重ねて、大理国国内の各地に仏教密宗阿叱力教派の影響を普及させた。王室をはじめの上層統治者及び主要住民白族までも深く仏教密宗阿叱力教派を信仰したから、洱海地区は「寺がない山はなく、僧侶がいない寺がない」になった。が、下層の民衆は「家は貧富がないが、仏堂がある。年長者と若者を問わず、数珠を手放す。1歳の間、いくつか斎戒する」であった。
王室貴族と仏教密宗阿叱力教派の関係は現存の「王者像」の中から一斑を見られる。
剣川石鐘山石窟には「細奴邏全家福」、「閣羅鳳議政図」、「異牟尋坐朝図」の3龕の南詔大理国王像がある。これらの像について、本主信仰だと思う学者がいるし、単純に国王を崇拝すると思う学者もいる。問題では王者類の像が仏教密宗の内容でなければ、どうして仏教密宗阿叱力教派の石彫り像の中に出現したのか?
剣川石鐘山石窟以外に、『南詔図転』に中興皇帝が阿嵯耶観音を礼拝する形象は、『張勝温画梵像巻』にその王者の形象も数回出現した。「利貞皇帝礼仏図」に利貞皇帝及び皇后妃嬪、皇太子、侍従の服装装飾は剣川石窟にある王者像と似ている。もっと重要なのは 「十一面観音」像の下に南詔十三代の国王及び細奴邏、邏炎盛の奥様潯弥脚、梦諱を供える人とする画面を描いてある。
少しも疑問がないように、現今見た南詔大理国時代の阿叱力教派像の資料には殆ど王者像が出現したことは決して偶然ではない。
仏教が洱海地区に入った初めに、南詔王と解けない縁を結んでいた。それから、歴代の南詔王も阿叱力教派を信仰した上で、民衆も仏への尊敬を主要な任務とした。注意する価値があるように、大理国の何名かの国王は殆ど釈儒が通暁する高僧であった。南詔蒙隆舜が「嵯耶」さえ開眼し、これでも分かるように、彼は阿叱力教派への信仰が深かったことをわかった。南詔、大理国諸王は阿叱力教派を信奉・伝播・押し広める過程でキーポイントの役割を果たしたからこそ、彼が仏を供える事跡は阿叱力教派の図鑑に描かれ、普及した。天竺僧侶の形象が石窟寺及び石彫り像に彫られたように、阿叱力教派を布教する緊密な関係を持つ細奴邏、閣羅鳳、異牟尋の3名南詔王の形象も剣川石鐘山石窟の中に彫刻された。もしかしたら、王者像を彫刻した初志は阿叱力教派に有功の国王を記念するかもしれないが、後期になり、彼らも崇拝された対象になった。したがって、王者像は阿叱力教派像の1種類であるかもしれない。
元代段氏元締め時代、仏教密宗阿叱力教派と段氏元締めの関係も非常に緊密であった。景定元年公元年大理元締め段実は北京に元帝に拝謁するとき、阿叱力僧侶を連れて行った。明代、咀初にある程度仏教密宗阿叱力教派を制限されたが、すぐ有名な阿叱力僧侶無極は南京に明太祖に拝謁した。明太祖永楽時代、大理鳳儀北湯天大阿叱力董賢は詔を応じ、北京の宮殿で邪気を追い払い、「逐邪功」の功労があったから、明成祖に「国師府」の額を賜られた。したがって、元明両代の地方役所の中に、阿叱力の専務「阿叱力僧網司」を設置してあった。
南詔立国の初めから明代末年までの数年中、仏教密宗阿叱力教派は始終に上層統治集団と関係が緊密であり、王室の力を借用して教義を発揚し、信者を吸収し、インドからの仏教密宗が極力南詔大理国の国教を発展しようとした。そのために元明両代中央王朝はそれを認めなくてはいけない上で、それさえ頼った。
2008-01-21 13:50:34 編集責任者:blizzard








